愛宕念仏寺は,醍醐天皇(885~930)勅願で,延喜11(911)年伝燈大法師千観(918~83)の開基。千観は空也(903~72)の教えを受けて熱心に念仏を進め,念仏上人とも呼ばれたので念仏寺の称が生じたとする。天台宗延暦寺派で,本尊は千手観音。大正11(1922)年右京区嵯峨鳥居本に移転した。この石標は愛宕念仏寺の旧地を示すもので Daha fazlasını oku.
【もりかんさいたくあと】森寛斎(1814~94)は,長州出身の画家。森徹山(1775~1841)に師事し円山派の画法を学ぶ一方で討幕運動にも参加した。維新後は京都画壇の研究団体如雲社の経営に努め,画壇の復興に寄与し,この地で没した。この石標はその邸宅跡を示すもので,寛斎に師事した山元春挙等の寄附で建立されたものである。 Daha fazlasını oku.
【こうのばいれいせいたんち】画家幸野楳嶺(1844~95)は,円山派・四条派さらに南画を学び,明治13(1880)年田能村直入(1814~1907)らとともに京都府立画学校を設立した。のち青年絵画共進会を作り竹内栖鳳(1864~1942)らを育てた。この石標は楳嶺生誕の地を示すものである。 Daha fazlasını oku.
明治5(1872)年に発布された学制のもと,幼児のための教育施設が幼稚小学という名称で制度化された。京都においても同21年までに10の小学校内に設置された。この石標は,同21年豊園小学校内に設立された豊園幼稚園を示すものである。平成4(1992)年豊園小学校の統合とともに閉園。 Daha fazlasını oku.
【ほうえんしょうがっこうのひ】豊園小学校は明治2(1869)年,下京第十番組小学校として開校し,同8年に豊園小学校と称した。この地は豊臣秀吉(1536~98)の別荘竜臥城の跡地で,秀吉が茶の湯に使ったと伝えられる邸内の井戸豊園水に因んだ命名。平成4(1992)年に格致・開智・有隣・修得と統合され,豊園小学校の地に洛央小学校が開校した。この石標は統合前の豊園小学校を示すものである。 Daha fazlasını oku.
豊臣秀吉が茶の湯に愛用したと伝わる「豊園水」。この水がわき出す井戸はもともと、秀吉の別邸・龍臥城の敷地内にあった。町衆が明治初期に建てた旧豊園小の敷地内で地域によって守られてきたが、約四十年前に地下工事の影響などで枯れ、二年前に跡地にある洛央小が復元した。 Daha fazlasını oku.
江戸時代後期の名医荻野元凱がこの地で医院を開業。その建物をそのままに、大正15年豪商井上利助が最新のライト様式の洋間を加えて新設した。和室部分は数寄屋の名工:上坂浅次郎が設計、一階洋間は京都工芸繊維大学・京都大学教授を務めた建築家、武田五一がフランク・ロイド・ライトの建築を参考にして設計、旧帝国ホテルと同様の外壁の石灰岩とタイルが貼られている。濠天井に寄せ木の貼り床、電熱式暖炉を設け、 Daha fazlasını oku.
日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は,明治28(1895)年に開業し,この地を起点として伏見町下油掛までの約6kmを走った。この石標は,電気鉄道事業発祥地として伏見線起点を示すものである。 Daha fazlasını oku.
【めいじてんのうごこやすみどころほんがんじきゅうだいきょうこう】明治13(1880)年7月20日,京都府巡幸中の明治天皇は七条停車場(京都駅)から神戸へ向かったが,その前に本願寺(西本願寺)大教校で休憩した。本願寺大教校は現龍谷大学の前身で,前年に開校したばかりで,天皇は講堂(現龍谷大学本館)などを視察した。この石標は明治天皇が休憩した本願寺大教校を示すものである。 Daha fazlasını oku.
下京の西本願寺周辺では,五条通と七条通の間に東西を横断する道路がなかったので,住民らの負担で西本願寺と本圀寺の間に,堀川通から大宮通まで道路を新たに開く工事が行われ,明治15(1882)年に竣工した。この碑は工事の完成を記念するものである。 Daha fazlasını oku.
左女牛井(醒ヶ井,さめがい)は京の名水の一つ。源頼義(988~1075)がこの地に築いた源氏六条堀川邸内の井戸であったと伝える。村田珠光(1423~1502)が将軍足利義政(1436~90)に献茶した際にこの水を汲み,千利休(1522~91)らも愛用したという。第二次大戦中,堀川通の拡幅により消滅した。この石標はその井戸跡を示すものである。 Daha fazlasını oku.